私が働いていた、ブラウンブックスカフェ円山店の頃。
古い一軒家や馬頭観音の石碑が佇む、静かな住宅街の一本道のつきあたり。日が落ちると蔦で覆われた白壁に直接貼られた看板の文字が、白熱色の照明にぼやあっと映し出されていました。建物の後ろには大きなマンションがそびえるように立っていましたが、それがまた静けさを際立たせていました。
閉店時間を過ぎ、外の照明を消すともう真っ暗。店内の片付けと売り上げの精算をし、最後にガラスの引き戸を木の扉にはめ替えます。
店じまいと帰る支度を済ますと、たまにこっそり、喫茶兼ブックコーナーである2階に上がってコーヒーの本を読みました。勉強を兼ねて、とかなんとか理由をつけて、なんともワクワクする時間でした。
店長と、当時一緒に働いていた子が本好きで、いろいろな本を教えてくれましたが、その中で今も、ずっと面白いと感じるのが吉田篤弘の「つむじ風食堂の夜」です。
最近見かけたある映画監督の言葉。お気に入りの映画の話をしている中で、
「”お気に入り”という言葉にはさまざまなレベルがあることがわかった。最も感銘を受けた映画、見続けるのが好きな映画、見るたびに学ぶことができる映画、新たな経験ができる映画…。つまりさまざまな”お気に入り”がある」
「つむじ風食堂の夜」は、私にとって「読み続けるのが好きな本」です。なぜか何度読んでも飽きることなく、たまにその文庫本の世界に入り込んで登場人物たちと同じ時間を過ごす、その時間が心地いい。
その食堂が頭に浮かんでくる時、なんとなくブラウンブックスカフェと重なります。古めかしい飴色のテーブル、水の注がれたコップ、漆喰の、何色とも言えない不思議な色をした四方の壁。
つむじ風食堂は十字路の角にあって、ブラウンブックスカフェはつきあたりにあったんですけど、
ー東西南北あちらこちらから風が吹きつのるので、いつでも、つむじ風がひとつ、くるりと廻っていた。ー
そんな一文を読むと、風が、色々なところから来てくれるお客さんのような気がしました。
閉店後に、小さな灯りの下で背中を丸めて本を読んでいる自分の後ろ姿が遠く見えるような気がすると、あの頃、働くという意味がなんとなくわかった頃だったなと思います。
コーヒーのことを好きになるんだ、もっともっとと、楽しくてしょうがなかった。今いる場所が好きなんだ。技術も知識も、お金という対価をもらうにはまったく足りな過ぎた。でもやる気とワクワクだけが、その静かで真っ暗な場所に、煌々と輝いていました。
今子供達にいろんなお仕事をしてもらおうとすると、「おかーさんこれどうやるの」と何度も聞きにくるので、手を止めて飛んでいきます。この期間は任せてることにならない。一人でできるようになって初めて、私も違う仕事ができて効率よく仕事が回るようになるってもんです。
社会で働いていた頃、雇い主はこの瞬間も、成長を信じてお給料を払ってくれていたんだろうな。頑張ってくれている姿、大失敗の姿、正直自分でやった方が早いくらい時間のかかっている様子、明らかにもうやりたくないという表情。でもできるようになるまでのその時間は、極端に言えばサナギのようにとても大事な瞬間で、私も貴重な姿を見ているんだと思う。じっくり待ちたいけど感情的に言ってしまったりして(それは同じことでも、その時のモチベーションにもよるし)寝る前にありがとうとごめんねがぐるぐるすることもよくあります。
黒い背景に小さな星と、タイトルしか書かれていない「つむじ風食堂の夜」の文庫本。
この本を閉じる時はいつも、ブラウンブックスカフェで働き始めた頃の自分と子供たち、そして今の自分と、当時の見守り育ててくれた人たちが浮かんできます。
そして今この時も、つむじ風食堂の物語と、片田舎で育児をしている私と、ブラウンブックスカフェのページはそれぞれ続いています。
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Chihiro Taiami