向田邦子のエッセイの中でコーヒーの出てくるものをさがしていたら、パラパラとめくっているはずが、面白くて結局じっくり読んでしまいました。じっくりだけど、どんどん読めていってしまうのが不思議な、この作家の文章。
向田邦子は、テレビの脚本家、エッセイスト、小説家として活躍しました。飛行機事故で五十一歳で亡くなり、今年で四十年が経ちます。
爆笑問題の太田光が彼女の大ファンで、本を出しています。ラジオ番組で向田邦子の特集をした際の樹木希林のインタビューでは、スタッフが依頼の電話をすると、「向田邦子?話しても良いけど、悪口しか言わないわよ。それでも良いなら聞きにきなさい。ただし、向田を知らない若いスタッフじゃなくて、よく知ってる人をよこしなさい」と言われたとのこと。
それならばと太田光自ら話を聞きにいくと、樹木希林は「仲良くなかったから」「あの方は良い作家でもなんでもなかった」など、”悪口”と言いながら、全て、向田邦子を絶賛しているように聞こえたそうです。太田光が、子供のように憧れ、謙虚に、誉められたい、近づきたい気持ちが伝わる内容でした。
「父の詫び状」というエッセイ集は、昭和の家族の情景が生き生きと描かれています。あとがきで「これは誰に宛てるともつかぬ吞気な遺言状」と当時の自身の病気に触れていますが、その病気のことを母に悟られないため隠していたことを、「そのまま「母への詫び状」になってしまった」と書いています。
その後の「娘の詫び状」の中で、母に病気だったことを告白するシーンがあります。
”どうしても今日のうちに白状しておかなくてはならないことがあって、母をコーヒーに誘った。茶の間で喋ると辛気くさくなる。明るい喫茶店なら、私も事務的に切り出せるし、母も涙をこぼしたり取り乱すことなしに受け止めてくれると思ったからである。”
”手頃な店を見つけ、向かい合って坐った。七十一歳の母はコーヒー好きで、いつものように山盛り三杯の砂糖を入れ、親戚の噂などを上機嫌で話している。うわの空で相槌を打っているうちに、二人ともコーヒーを飲んでしまった。もう言うしかない。
「三年前のあれね、実は癌だったのよ」
一呼吸置いて、母はいつもの声でこう言った。
「そうだろうと思ってたよ」”
(向田邦子ベスト・エッセイ「娘の詫び状」より)
喫茶店は一人で来る人もいれば二人で来る人もいます。もっと大人数の場合もあるけれど、コーヒーを間に置いて、人と人が向かい合う。この光景はやはり喫茶店やコーヒーが一番腕の見せ所というか、力を発揮できる立ち位置のような気がします。
「一杯のコーヒーから」というエッセイでは、若い頃の向田邦子が、喫茶店で、初めてテレビの脚本を書く話をもらった場面のことが書いてあります。
”時間が半端だったせいか、明るい店内はほとんど客がいません。新製品なんでしょう、嫌に分厚くて重たいプラスチックのコーヒーカップは、半透明の白地にオレンジ色の花が描いてありました。置くとき、ガチンと音がしました。コーヒーは、薄い、今で言うアメリカンだったと思います。”
(向田邦子ベスト・エッセイ「一杯のコーヒーから」)
いざ仕事を始め、本人いわく、最初はお小遣い稼ぎのつもりで書いていたという台本は、オンエアが終わると捨てていたそうです。どんなものを何本書いたかも記憶にない中で、「覚えているのは、あの日、プラスチックのカップで飲んだ薄いコーヒーの味ぐらいだった」そうです。コーヒーの味は薄く、カップは分厚く重い。
最後に「手袋をさがす」というエッセイ。これにはコーヒーは出てきません。
二十二歳の頃、ひと冬を手袋なしですごしたこと。なかなか気に入った手袋が見つからず、妥協するのも嫌で、かといって惨めったらしく見られるのも嫌で「わざとこうやっている」ふうに颯爽と歩いていた。でも、手袋のない手は、ほんとはいつもカサカサに乾き、冷たくかじかんでいた。まわりは始め冗談だと呆れていたけれど、そのうち母にも本気で叱られ、本人はそのことでさらに意地が出てきます。
このエッセイでは向田邦子が、とことん目をそらさずに自分を見つめて、叱って、最後は抱きしめてあげているような気がします。自分の嫌なところをいっぱい書いて、書き切って、そんなところを愛してあげようと決めた。
色んな人からの愛のある助言を受け、それを素直に「ハイ」と言えない自分へのもどかしさ。しかしそれが自分の気性でもあり、生ぬるい反省をしたふりをするくらいなら「その枝ぶりが、あまり上等の美しい枝ぶりといえなくとも、人はその枝ぶりを活かして、それなりに生きてゆくほうが本当なのではないか」。
手袋をせずにすごした二十二歳のひと冬から、四十代になった向田邦子は、年と共に勢いだけでは動けなくなった体や、経験からくる用心深さに苛立ちながらも、自身が今ももつたったひとつの財産は、いまだに「手袋をさがしている」ということだと言います。「この頃、私は、この年で、まだ、合う手袋がなく、キョロキョロして、上を見たりまわりを見たりしながら、運命の神様になるべくゴマをすらず、少しばかりけんか腰で、もう少し、欲しいものをさがして歩く、人生のバタ屋のような生き方を、少し誇りにも思っているのです。」
誰にでも、どんなものにでも、優しいところを見つけてくれる、向田邦子のエッセイの中で、この話は、今まで彼女が、自分を厳しく見つめてきたのが伝わります。
本当は何をさがしていたのだろう。見つかることが幸せなのかはわかりません。
でも、自分が手袋をさがしていることに気づいている人は、少ないのかも知れません。
参考
「父の詫び状」向田邦子
「向田邦子ベスト・エッセイ」向田邦子
「向田邦子の陽射し」太田光
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chai