彼女との出会いは、はるか昔に遡る。
近所の公園で、ちいさな段ボールに入って震えていた彼女と目が合ったのは、確か私が、11歳の頃。
彼女は、決して人懐っこくなく、愛想もなく、極めて自由だった。
物静かな母と気が合ったのか、彼女はいつも母の近くにいた。毎朝必ずコーヒーを飲む母の隣で静かに佇み、母がカップを置くたびにコーヒーが波打つのを、彼女は時々不思議そうに見つめていた。
母とは正反対の私には滅多に近づかなかったが、私が落ち込んだ日に静かに隣に来てくれたのは、彼女なりの優しさか、はたまた気のせいか、いや、ただストーブの前で暖まりたかっただけか。理由はどうであれ、珍しく私の隣に来てくれたあの日、彼女のおかげで少し気が楽になったのを覚えている。
来る日も来る日も母の隣の特等席に座り、カップを置くたびに波打つコーヒーをじっと見つめ、眠くなったら、そのままテーブルの上でまるくなる。まるで時間が止まっているかのように見慣れた光景だったが、段ボールの中で震える彼女を抱きかかえたあの日から、気づけば長い月日が流れていた。
彼女はいつから、旅立つ準備をしていたのだろう。
突然の知らせを受けて実家に帰ると、遠い昔、買いたてのガラケーで私が撮った、家に来てまもない頃の彼女の写真がテーブルの上に飾られていた。隣には、彼女が好きだったぼろぼろのおもちゃと、お気に入りだった、ちょっと高級なおやつ。
母は、「自分の親が死んだ時より泣いちゃったよ。」と冗談ぽく笑っていたが、本当にそうなのだろうと思った。その日も母は変わらずコーヒーを飲んでいたが、母の隣の特等席は、どれだけ待っても空席のままだった。
寂しげな母の背中は、猫背であることを差し引いても、こころなしか前より丸まっている気がした。彼女の旅立ちと共に、あまりに長い月日の流れを実感し、思わず鼻の奥がツンとする。いつも、湯気が出ているうちにコーヒーを飲み干すせっかちな母が、その日はゆっくりとおもいでに浸るように、冷めきったコーヒーを飲んでいた。
翌朝、父も母も仕事で家を出て、ひとりになった。
ふと思い立ち、お湯を沸かして、母がいつも飲んでいる安いインスタントコーヒーの蓋を開けた。適当にスプーンで粉をすくってカップに入れ、お湯を注ぐ。
湯気が立ったコーヒーは、少しお湯を入れすぎたか、なんだか薄く感じた。母がいつも座っている椅子に腰掛け、テーブルに置いた振動で波打ったコーヒーをじっと見つめる。
猫背の私を、母だとうっかり間違えてくれないだろうか。
思ったより薄味になってしまったコーヒーを飲みながら、彼女が旅立ってから何度も繰り返し聴いた歌を口ずさむ。
「幽霊になった僕は 明日遠くのきみを見に行くんだ その後はどうしよう きっと君には言えない」
コーヒーのにおいに誘われ、今日ばかりは彼女だけの特等席に戻ってきてくれないかと思ったが、やっぱりいいや、とカップを置いた。
彼女は、人に懐かず、飄々とした、自由で気高い猫だった。
きっともう、いつもの散歩コースからは考えられないくらい思いっきり遠出して、今頃ひとり気ままに、旅をしているに違いない。
なんだか急に苦味を感じて、母は絶対にいれない、砂糖とミルクをどばどばと入れた。すっかり冷めきった、あまったるいコーヒーを一気に飲み干す。
遠出するには絶好の、晴れた朝。
だれもいない家に、私の音痴な歌だけが響いていた。
引用 「雲と幽霊」ヨルシカ
BBC staff 渋川