喫茶店で働いていた時、出会った女の子がいます。
小さな店だったので、カフェ業務とコーヒー豆の販売を、平日はだいたいひとりでやっていました。一対一で接客をしていると、自然とお客さんとも距離が近くなり、私がブログに書いた本を自分も好きなんだよ、と声をかけてくださったり、話が弾みました。
小さな常連さんも何人かいて、初めてのおつかいで、頼まれたコーヒー豆を買いにきてくれた男の子もいました。男の子越しに、窓の外でお母さんがこちらに会釈してくれた光景は、今も残っています。
その女の子はおばあちゃんと一緒にやってきました。膝小僧には大きな絆創膏。年齢のわりに小柄で、ショートカットの、日に焼けた可愛いらしい顔をしていて、いたずらっぽいけど賢そうな目をクルクルさせて、大人のことなんてお見通しといった感じでした。アイスココアを飲んで足をぶらぶらさせていました。その日はおばあちゃんの陰に隠れてあまり話さず帰りました。
次に来た時、こっそり集めているシールを見せてくれました。だんだん、遊ぼう、と言ってお客さんのいない時に店の前のお花を摘んだり、お昼休みに、二人でフリスビーをやったりしました。雪かきを手伝ってくれたり、泥だんごを作ったり。冬休みの自由研究で作った羊毛のアイスクリームをお店に飾ってくれたこともありました。私の貧しいお弁当を見て、海苔で小さな顔をつけたおにぎりを作ってきてくれたこともありました。とても可愛いという感覚もあったけど、それ以上に、歳の差は関係なく私たちはきっと波長があいました。
だけどだんだん、私は仕事とその子との時間の境目が難しくなってしまいました。今は仕事中だから遊べないんだよ、とはっきり言えなかった。やんわり伝えると、その子は少し考えて「じゃあ忙しくてもお話ができるようにお手紙ポストを作ろう!」と、翌日ミッキーのお菓子の箱に差し出し口を切り抜いて、ポストを作ってきてくれました。その後も、お仕事があるから今はごめんね、売り上げ作らなきゃ!と言うと、「じゃあお客さん連れてくるね!」と、本当に引っ張ってきてくれることもありました。
その時、その子はきっと寂しかった。優しくしてくれる人を、ほっとできる居場所を探していた。誰かに喜んでほしくて一生懸命だった。
その後私は店をやめ、住む場所も変わりましたが、その子とは、おばあちゃんを通じてたまに連絡をとっていました。高校生になり、自分でスマホをもつようになると、好きな人の話や、自分の好きなことの話を教えてくれるようになりました。そしてこの夏、9年ぶりに、その子とおばあちゃんが訪ねてきてくれることになりました。おばあちゃんのおしりの陰から顔を出していたその子が、今度はおばあちゃんを連れて遊びに来てくれました。改札から出てきた19歳の彼女は、すっかりおしゃれなお姉さんになっていて、芯のある眼差しはあの頃のままでした。
今は専門学校へ通い、好きな絵やデザインの勉強をしています。夢に向かって悩むことも、今を一緒に楽しむ仲間や恋人も、若さというたくさんの宝物を抱えています。
当時10歳くらいのその子が、私が何か悩みをぽつりと言った時にかけてくれた言葉が日記にメモしてあります。
「先が見えてるっていうのはほんとに目に見えてるっていう意味じゃなくてね、きっとどこかで神様が合わせてくれてるっていう意味だから、全てにおいて、ちっちは正しい道を歩めるようにどこかで見えてるっていうことなんだ」
こんなに相手を思いやったまっすぐな言葉を、どうやったら言えるんだろう。悩んだり迷ったりした時、何度もこの言葉に助けられています。彼女は当時も今も、私の親友です。
業務用のコーヒーミルからこぼれた、コーヒー粉の匂いが充満するお店の中でパタパタと働いていた時、重いガラスの引き戸を開けて、飛び込んできたあのキラキラの笑顔をなくして、未熟な喫茶店員の回想はありません。
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chai