映画俳優、デザイナー、エッセイスト、雑誌編集長、翻訳者、CMクリエイターなどさまざまな分野で活躍し、料理やレタリングの腕も一級。1984年、五十一歳で「お葬式」で映画監督としてデビュー。主な映画作品に「マルサの女」「「ミンボーの女」「スーパーの女」などがあります。
さてこの人物は?
伊丹十三の歯に衣着せぬ文章や感性は、おそらく何十年経っても古くならない、そういうアンテナに集まってきているものだと思います。このお洒落なおじさんは、めちゃくちゃ素直に、正しい目で物事を吸収して、それを時に辛口で挑発的に、わざわざみんなに親切に教えてくれようとしている。いいものはいいと言い、ダサいものはダサいと言う。そして「これはすべて人から教わったことばかりだ。私自身はーほとんど全く無内容な、空っぽの入れ物にすぎない。」なんて言います。
欧州で暮らした際は、日本で食べ慣れていたパンとの違いに衝撃を覚えたり、アボカド(アヴォカード)やカマンベールチーズや、大きな木のボウルにドレッシングから作り、とれたての野菜をザクザク入れていく、そんなサラダなんかを全身で味わい吸収していきます。日本でも、蕎麦屋の店主に話を聞いた鰹節の量に驚いたり、祖母の梅干しや伽羅蕗の作り方を詳細に思い出そうとしていたり。やっぱり興味のあることはとことん本物を見たい!味わいたい!そう思わされます。また、食だけではなくファッションやマナーなどでも、幅広い知識を得ていきます。
そしてコーヒーの話をしている章。ちょっと長いですが。
ーそこへゆくとヨーロッパの子供なんかは、まだしあわせだと思う。今でも昔ながらに、彼らはコーヒーの豆を挽く音で目を覚ますことができるからだ。そうして、ヨーロッパではだれも「コーヒーは匂いがとびやすい。だから新鮮な味と香りを愉しむためには、コーヒーは必ず飲む直前に必要な分量だけを挽くようにいたしましょう」などと絶叫したりしない。つまり必要がないのである。常識がいまだに常識として命を保っている。つまりそれが文化というものであろう。
さてコーヒーを挽くにはコーヒー・ミルというものを使う。木の箱に鉄のハンドルがついていて、箱の上の蓋をあけてコーヒーの豆を入れ、ハンドルをがりがり回すと挽かれたコーヒーが下の引出しにたまる。なんとなく鰹節を削るのと趣が似ているではないか。
大きさはさまざまで二人用くらいから、ずいぶん大きな大家族用みたいなのまである。電気で動くやつもあるが、自分の手で、ハンドルから伝わってくる豆の砕ける乾いた感触を味わうのが愉しいのである。
日本人はずいぶんコーヒーをよく飲むし、また妙に銘柄やブレンドにうるさい人が多いわりにコーヒー・ミルを持っている人が少い。挽きたてでないコーヒーを論じてみても詮ないことと、私は思うのだが。
(女たちよ! 乾いた音/1968年)
この本が出版された1960年代と言えば、コーヒーの生豆やインスタントコーヒーの輸入が自由化され、第一次コーヒーブームが到来した時代。国内初の缶コーヒーも登場しました。
個人経営の店が主流となり、寡黙な渋いマスターが淹れるコーヒーと、「ジャズ喫茶」「シャンソン喫茶」など、店主のこだわりがつまった店が人気となっていました。
そんなインスタントコーヒーについては、こんな言葉が載っています。
ーインスタント・コーヒーについては、世の中にそういうものがある、ということを知っているだけにとどめたい。世の中には、そういうものを飲まなければならぬかわいそうな人たちがいるということを知っているだけにとどめたい。ー
しかし親交のある方の話だと、実はインスタントコーヒーも結構飲まれていたそうで。
まだまだ伊丹十三を語るには何も知らないですが、留まらず、いつも驚き続けられるものを見つけていく、好奇心や面白いことへのアンテナをずっと持ち続ける楽しさを、このおじさんは教えてくれている気がします。
-18-
chai