私にとってコーヒーはバロメーターでもあって、調子のいい日は朝からコーヒーが飲みたくて一日中飲んでいる。
淹れることも楽しいし、好きなことを妄想したり、どこからかちょいとアテを持ってきたりして、そこには何かしらを楽しむ余白がある。
飲むと腸が活発になっていろんなアイディアが浮かんだり、今日やるのにぴったりなことが次から次と頭に浮かんでくる。腸と頭はつながっていると思う。
逆にあまりよくない日はコーヒーが全く進まない。飲んでみても美味しいとも思えないし、明らかに体調の悪い日は本当にコーヒーを求めていないのである。
こうなるとただただ白湯を飲んで、体や心のダルいものとか溜まったものをひたすら流していくという感じになる。本体の私自身もじっとしている。
味とか成分とか効能だけが理由ではない。好きなものだからこそ、向き合い方で自分のモチベーションがわかる。
コーヒーに出会わなくても、のほほんと幸せにやっていたかもしれない。こんなにコーヒーに彩られなくても、違うものが私の一日に鮮やかさを与えてくれていたかもしれない。
でもあの時、情熱とか何かを好きとか楽しいとか、全部ぶち込まれた一杯を飲んでしまったから、私はカップの中に今もそれが見えるんだと思う。
そのコーヒーは癒しでも浮ついたおしゃれでもない、ただ不器用で、本物を求める情熱に溢れ、自分の心に正直であろうとする、一杯だった。その時私が強く求めたから、こんな広い世の中でありながらその人の淹れたコーヒーが呼応してくれた。コーヒーじゃなくてもよかったはずなのに。
だからコーヒーというより、コーヒーという形になって現れたその思いのバトンを、私はその時受け取ったのかもしれない。
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Chihiro Oshima