Coffee Column
ブラウンブックスカフェのコーヒーにまつわる日々のコラム

Yoko Hoshikawa
ブラウンブックスカフェ/ブラウンブックスヴィンテージ店主。
コーヒーとHip Hop を愛する2児の母。札幌在住。
Chihiro Taiami
妖怪が大好きな円山店時代の元スタッフ。
4人の子供の育児の合間に当店のコラムを担当している。道南在住。
  • title
    バトン
  • date
    2025.10.02

私にとってコーヒーはバロメーターでもあって、調子のいい日は朝からコーヒーが飲みたくて一日中飲んでいる。

淹れることも楽しいし、好きなことを妄想したり、どこからかちょいとアテを持ってきたりして、そこには何かしらを楽しむ余白がある。

飲むと腸が活発になっていろんなアイディアが浮かんだり、今日やるのにぴったりなことが次から次と頭に浮かんでくる。腸と頭はつながっていると思う。

逆にあまりよくない日はコーヒーが全く進まない。飲んでみても美味しいとも思えないし、明らかに体調の悪い日は本当にコーヒーを求めていないのである。

こうなるとただただ白湯を飲んで、体や心のダルいものとか溜まったものをひたすら流していくという感じになる。本体の私自身もじっとしている。

味とか成分とか効能だけが理由ではない。好きなものだからこそ、向き合い方で自分のモチベーションがわかる。

コーヒーに出会わなくても、のほほんと幸せにやっていたかもしれない。こんなにコーヒーに彩られなくても、違うものが私の一日に鮮やかさを与えてくれていたかもしれない。

でもあの時、情熱とか何かを好きとか楽しいとか、全部ぶち込まれた一杯を飲んでしまったから、私はカップの中に今もそれが見えるんだと思う。

そのコーヒーは癒しでも浮ついたおしゃれでもない、ただ不器用で、本物を求める情熱に溢れ、自分の心に正直であろうとする、一杯だった。その時私が強く求めたから、こんな広い世の中でありながらその人の淹れたコーヒーが呼応してくれた。コーヒーじゃなくてもよかったはずなのに。

だからコーヒーというより、コーヒーという形になって現れたその思いのバトンを、私はその時受け取ったのかもしれない。

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Chihiro Oshima

 

 

  • title
    ミジンコ
  • date
    2025.08.20

お盆が過ぎたと思ったらすごい雨。モヤっとした空気に雨の音がどうどうと響いている。窓を小さく開けて見ると、雨水が小さな川のように道路の側溝へ流れていく。

夏休みもあと少し。なんにもないこんな日は特に時間がゆっくり過ぎる。

一日中茶碗を洗って、一日中洗濯機を回している気がする。終わったと思ったら大雨に喜んだちびっ子たちが外に飛び出し、30秒で全身びしょ濡れになって帰ってくる。

合間に息子と戦国無双のゲームをやってスカッとするも、終わらない小さな仕事はスローな時間と相まって、なんだか自分の動きまで鈍く感じる。

最近ホラーものを見たがる小学生たち、そして多分怖いものに兄たちより強い幼稚園児と一緒に、テレビでやっていた怪談の録画を観た。涼しくなると思いきや、見続けているとどろーんとして「なんだか空気重いね」と誰かが言い、飽きてやめた。

おばあちゃんちで過ごしたり、初めて海水浴に行ったり、蛍を見たり、懐かしい友達に会ったり、少し遠くに行くぐらいの穏やかな夏だった。

大学で一人暮らしをしている頃は、とにかく自由であることが楽しく、実家に帰っても何か絡め取られるようなもちゃもちゃした空気を感じていた。その「もちゃもちゃ」を、「守られている」と感じるようになったのはいつからだろう。お盆に特にそう感じるのは、本当にご先祖様が帰ってきてるからなんじゃないかと思う。

自分が子供の頃、大きな公園のそばにある、祖父の家からは蝉の声がよく聞こえた。祖父の椅子の後ろの窓では風鈴が鳴っていた。いとこのおじさんが蝉の幼虫を網戸に引っ掛けて、夜に羽化するところをいとこたちと見た。静かで忘れられない光景だ。働いて夏に帰省した時は、祖父と祖母と母と、テーブルを囲んでコーヒーを飲んだ。あの頃はケーキ二個もペロリと食べられたが、今は食べられないな。

少ししゃきっとしたくて、豆を引いて熱いコーヒーを淹れた。ポタポタという音と香りに、少しだけ頭が冴える。

私が「もちゃもちゃ」を感じていた頃に元気だった祖父も祖母も、みんなもういない。親も少しずつ歳をとる。あの頃いなかった子供達が、今は生活の中心になっている。細胞が生まれ変わるように、私たちは続いている。理科の教科書で見たミジンコと同じだ。

暑くて、頭もぼーっとして、空気もむわっとするこんな夏の一日も、飲んだコーヒーの味や音も、ただの小さな細胞のひと時にすぎないかもしれない。それでも、もちゃもちゃと繋がり合うみんなのどこかに、忘れられてもいいくらい小さく残っているといいな。

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Chihiro Oshima

 

  • title
    朝のコーヒー
  • date
    2025.06.10

朝のコーヒー。

下げられた食器やら作りかけのお弁当やら、食べかけのトースト、そんなのにまぎれてキッチンに置いてある。

かじってエキスの吸われたオレンジの皮の横。目玉焼きで使ったあとの油のついたフライがえしがのっかる場所。残ったごま塩がのった小皿の脇。

一日一日があっという間に過ぎて、何か一つのことを味わえただろうかと思う時もあるけど、不思議と切り取られたようにはっきり覚えている場面もある。

それがこんな朝のコーヒー。

朝ごはんを作ったり、食器を洗ったり、水筒に麦茶を注ぐ、というようなちょっとした作業の時でさえ、その傍らに、止まったように置いてあるコーヒーが見える。

家族を送り出してほっとして飲んだコーヒーではなく、ましてやカフェや喫茶店でゆっくり飲めたコーヒーではない、あの忙しさの中のコーヒー。

ミッションインポッシブルのトムクルーズのように、目の前のミッションに相対しながら、直視しているわけではないが景色の中にぼんやりとコーヒーを感じている。ただし、コーヒーから送られてくる指令は何もない。コーヒーは私に何も求めていない。ただ私がコーヒーを飲むためにがむしゃらに何かをやっているだけだ。

静止したあのコーヒーに手が伸びるかどうか…というアレが、私が死ぬ前に思い出すコーヒーと、ありふれた日常の記憶の一つになるかもしれないなぁ。

きっとこんな朝がいつまでも続くわけじゃない。

特別なものではないけれど、この朝のコーヒーは、これから先、同じ味でも香りでも作れないコーヒーだ。

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Chihiro Oshima

  • title
    ハゼを待つ
  • date
    2025.04.03

もう二年くらい前の話。

焙煎がどんなものか知りたくて、ネットでお試し用の五種類のコーヒー生豆を買った。届いた豆は、灰色と薄緑色が混ざったような色で、うっすら麻袋の匂いがした。

銀杏を炒る手網にほんの五十グラムくらいの豆を入れ、届いた豆についていた焙煎の仕方の紙を見ながら、ガスコンロの上で焼いてみた。

だんだん匂いが変わってきて、「ハゼ」という音を初めて聞いて感動しているうちに、焦げ臭くなり、気づいたらあっという間に真っ黒に焦げていた。

生豆を焙煎すると化学反応が起こる。その過程で、色、苦味、酸味、香りが作られていく。

ガスが豆の内部の圧力を上げ、豆を膨らませていくのだけど、やがて圧力の上昇に耐えられなくなると、豆の細胞が音を立てて壊れ、弾ける。

ぱち、

これが一度目のハゼ。

さらに膨張した豆は、細胞が壊され、どんどん音の数も増えていく。

ぱち、ぱち、ぱちぱちぱちぱち!

これが二ハゼ、三ハゼ。

焙煎が進むたびに香りも変化する。火からおろし冷めるまで、豆は変化していく。

初めての焙煎はおろすタイミングも、おろした後の火の進み具合もわからずに、焼けたコーヒー豆の薄皮をあたり一面に散らして、あたふたと終わった。

そしてしばらく、お試し用の五種類の生豆は、仲良く棚の中で眠ることになった。

今年、なんの気なしに再び棚から出した時、すでに賞味期限は切れていたが、また生豆が呼んでいる様で焙煎してみることにした。

今度は、続けたこともあり、だんだん豆の色や匂いでこれくらいかな、という自分なりの基準ができてきた。小さい手網で、一日に何度もやっているともっとわかってきた。体感したり、体験するっていうのは、一番楽しい。

その基準が、正しいとか合っているかとかはわからないけど、なんでも自分と何かが呼応するタイミングがあって、生豆のように、ある日突然どこかで弾ける時を待っている様な気がする。

参考:コーヒー「こつ」の科学 石脇智広(柴田書店)

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Chihiro Taiami

  • title
    「の」の字
  • date
    2025.02.02

今朝もコーヒーを淹れていて、ふと思いました。コーヒーはどうして「の」の字に注ぐのか?

なんの疑いもなく、ハンドドリップするときは、何日も何年も当たり前のように「の」の字で淹れてきました。「かもめ食堂」の映画でも、おじさんは「コピ・ルアック」と唱えたあと、お湯をくるくる注いでます。

最初に粉の真ん中から外に向かって軽く一巻き。粉が膨らんでいくのを確認したら、続けて二巻き、三巻き…外にいったりうちに戻ったり。お湯の落ちるスピードや着地点で粉の形が変わって行くのを見ると、無心になり、いつしか駒をつまんで世界を創っているかみさまのような気がしてきます。かみさまって案外ぼんやり世界を創ってたんでしょうか。

よく言われるのは「の」の字なんですが、てん、てんと垂らしながら注いでいくという違うやり方もあるみたいですね。

要は同じところに注ぎすぎてはいけない、ということを意味しているらしいです。

コーヒーの成分は、お湯を注ぐと、粉の中心から表面へゆっくり出てくるので、同じ所に注ぎすぎてしまうと、成分がなくなった粉の所をお湯が流れているだけになり、薄いコーヒーになってしまう。

だから、ゆっくり注ぐと濃い味わいになったり、速く注ぐとスッキリした味になったりする、なんていうのもお湯のスピードと粉の当たる面の関係によるものなんですね。

またお湯の温度によっても出てくる成分で苦味や甘みのバランスが変わります。

速さ、温度、愛情、偶然のなにか…注いだもので出来上がるコーヒーは、人生に似てる!?

さぁ今日も、自分のペースで回していくとしよ。

参考:「コーヒー「こつ」の科学」 石脇智広

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Chihiro Taiami